第三章 ジェイムズ経験論の発展

第六節 ジェイムズ経験論のその他の特徴について

 われわれの作業はジェイムズの根本的経験論の解明を焦点に彼の思想の核心がなんであるかの追求にあった。もはやそれも最後の段階にきている。もともとジェイムズは自分の思想が様々の教説として、様々な名前のもとに呼ばれることを嫌っていた。本来哲学といわれるものは「人間の内的性格の表現」なのであり、人間の性格が決して容易に規定されえないように、哲学も又一つあるいはそれ以上のイズムでもって、説明されるべきではないのである。哲学が教説ないしはイズムでもって説明されるとき、そこには「悪しき主知主義」が働いており、そのもとに定義に含まれないすべてのものが除外されている。それ故それは生の連続的性質とあいいれないのであり、完全な説明でさえも生の実在の象徴であるとさえいわれうるのである。従って本節において補足的につけ加えられるジェイムズのいくつかの教説も又そのような印象を与えるものでしかないであろう。
 それを指摘する前にわれわれは前節においてジェイムズの多元論が一元論的多元論ともあるいは多元論的一元論ともいえる特徴をもっていること及びもっと一般的にみた場合、ジェイムズの教説が極端に対立する二つの教説の中間に位置しているかのような役割をはたしているということが論述されている点を思いださねばならない。この点はジェイムズの思想の特徴を理解する重要な手がかりとなっている。即ちわれわれはここでジェイムズの思想は極端に対立する二つの教説の仲介者であり調停者としての、中間的な教説であると一般的に結論づけることができるのである。
 この考えは実はプラグマティズムの一つの考え方であることは容易に判断せられるだろう。しかしそれはそれ自身とりだしてみても注目されるべき見解であるといわれねばならない。たとえばジェイムズが哲学の諸特性を上のように区分した有名な図表があるので、われわれはこれをとりあげてみよう。
┌────────────┬──────────── ┐
│ 
軟らかい心        │ 硬い心            │
│  合理論的(「原理」でいく)│  経験論的(「事実」でいく)│
│  主知主義的         │  感覚論的           │
│  観念論的          │  唯物論的           │
│  楽観論的          │  悲観論的           │
│  宗教的            │  悲宗教的           │
│  自由意志論的       │  宿命論的           │
│  一元論的          │  多元論的           │
│  独断的            │  懐疑的             │
└────────────┴────────────┘
 ジェイムズはかかる区分をしながら、一例として自分が「一種の多元論的一元論」を採らざるをえないこと、「一種の自由意志論的決定論」こそ真の哲学であること、「実際的悲観論と形而上学的楽観論は結合すること」をあげ、その他についても同様である、という。
(1)
 このジェイムズの大胆な主張が通用するのは、前節の考えによれば、それらが事実に忠実である態度に起因しているとして説明されているが、別の見方をすれば、まさにジェイムズがいうように、哲学が「気質」として説明せられるからに他ならない。図の哲学的形容詞は人間のもっている気質の典型的な特徴であるのにすぎず、従って一人の人間の心の中において、矛盾するとも思える二つの考え方が共存していると考えられてもなんら不思議ではないのである。
 この点についてわれわれは二、三検討してみよう。本章の第三、四節にあきらかにされている如く、ジェイムズは経験論者でありながら、有神論者である。それだけにジェイムズの神観も特徴である点があきらかにされたわけであるが、それならば、そもそもジェイムズは「有神論」をいかに考えていたのであるか。教説として考えられる場合、無神論と対立する独自の知的性格をもっている。だがジェイムズにとって有神論は実はアグノスティシズムとグノスティシズムの中間にあるものの呼び名であった。彼は次のようにいう。「有神論はわれわれがいかにして神がそれ自身をあるいはわれわれをつくったかを知りえないと告白する限りアグノスティシズムとともにし、神の性格についてはそれがつくられた時それを知ることができ、又いかにして神がわれわれに行動するよう求めるかを知ることができると主張する限りグノスティシズムとともにする。」
(2)
 この調停的な主張は、その性格がそうさせる如く、二つの極端な考え方をさしひかえさせることによって成立している。即ち有神論であるからといってグノスティシズムに全くうらうちされているわけではなく、逆にアグノスティシズムの主張が一方的に無神論に結びつくわけではないのである。
 さらにプラグマティズムという名前自体もいわば極端に対立する二つの考えの中間であるものの別のよび名ともいえるのである。その二つとは合理論的考えと経験論的考えである。その際ジェイムズは次のようにいう。「合理論者は以下の如く考える。概念的な認識は経験的知覚などのたすけを必要としない自己充足的な直覚というべきである。それはわれわれを神々しい世界、ほろびゆく世界ではなく不滅の不変の世界、本質の世界、不変の関係の世界、真理と正義の永遠の世界へ導いていく。……こうした極端な合理論的見解に対し、経験論は『概念の意義はいかなる場合においてもその概念と知覚的個物との関係の内にある』と主張する。つまり知覚から作られ知覚の部分から蒸溜された概念の本質的な任務は知覚と再び一致し、精神を状況のよりよき支配のできる知覚的世界につれ戻すことである、と経験論者は主張する。たしかに概念にこうした任務を果たさせうるならば、それを抽象的で静止した諸概念と一緒にしておくよりはましなことはいうまでもない。従って、概念的知識が自己充足的であると認めることにおいて合理論者に加わり、同時にかかる知識の十分な価値がそれと知覚的実在とが再び結びつくことによってのみえられるということを主張する点において経験論者に加わる、ということは可能である。」
(3)
 これはあきらかに合理論と経験論を調停するような態度であり、それによりわれわれは両者の本質の各々をみとめつつ、一つの中間的な見解をだそうとするジェイムズの意図を感じとることができるのである。このように一般的にジェイムズの究極の哲学的課題は、彼が大学で教えた形而上学の課程の目標としてもかかげられているように、「経験主義と精神主義を結合すること」
(一)である。極端ないい方をすれば極端に対する二つの理論の折衷された理論が可能かどうかを索るのがジェイムズ自身の形而上学としての具体的課題であったのである。そしてその可能性が事物のプラグマティックなとりあつかい方においてえられるというのがジェイムズの結論なのである。
 かかる理論の折衷による考えとして忘れられてはならないものが二つある。それは改善論と偶発論である。これらの考えは根本的経験論、プラグマティズム、多元論なる三つの根幹的思想と同様、ジェイムズ独自のそれといっても過言ではない。特にこれらの考えはある意味ではジェイムズの最も切実な課題である倫理、道徳に直接的に答えている考えとして位置づけられている。それ故われわれはこれらの考えの考察に本節に割りあてられた残りのスペースをさかねばならない。
 まずジェイムズの主張する改善論は、本節の立場にたてば、世界の救済を不可能と考える悲観論と世界の救済を不可避とする楽観論の間にある調停的、折衷的理論である。具体的には前述されてあるように「実際的悲観論と形而上学的楽観論との結合」の例の別のよび名であり、この改善論が現実的に最も生かされるのは有神論と結びついた場合である。
 ジェイムズはそれをさらに自然主義と絶対主義とを結びつける有神論と関連させて次のようにのべる。「一方における粗野な自然主義の、他方における超越的絶対主義の、二つの極端の間に、私がプラグマティックなあるいは改善論的なタイプの有神論とよぶ自由をもつものがまさにわれわれが要求しているものである。」
(4)
 さてここからわれわれは次の点に気づくであろう。即ちジェイムズは「改善論的」なる言葉を「プラグマティック」と同じようにあつかっている点である。それのみか後述されるように「改善論的」とは「多元論的」ないしは「偶発論的」とも同義であるのである。そこからわれわれはいわゆるジェイムズ思想といわれる多元論、プラグマティズム、有神論、改善論、偶発論等々は実は同じ意味をもっており、ジェイムズのその時の観点によって使い分けられているにすぎない点をみることができるのではないだろうか。それらはまさに再三再四くりかえしているところの経験的事実に対する様々なとらえ方を意味しているにすぎず、結局は一つの生の経験的事実しかないということを証明しているようなものであるといわれよう。
 そこでここでは改善論の具体的内容を多元論から導出される考えを特殊に考察することによってみてみよう。われわれは前節においてジェイムズの多元論が容易に善をして悪に吸収させない意図のもとに成立している点をみた。そこでは善は善として、同様に認められているとともに、確固として存在しうることが認められ、われわれの倫理的課題が、その中にあって、どれだけ悪を少なくしていくか、悪に対してどれだけ敢然とたちむかっていくかによって充足されるという点が積極的に主張されていた筈である。改善論たる所以は善が一挙に実現されるものではなく、われわれの奮闘的努力によって少しずつ実現されるところにある。
 この考えは、しかしながら、形而上学的楽観論がもつところの要求に応ずる。即ちあらゆるものをつつみこむ要求をもった理念を想定する。それは世界の救済を可能にするという確固たる信念にうらうちされた道徳的な宇宙をわれわれの前にもたらす。そしてそのようにしてわれわれの倫理的意識を方向づける。次にかかる倫理的意識が悲観論的にうちひしがれた諦観の態度を凌駕し、たとえこの道徳的宇宙が未完成であるにせよ、それによって喚起せられる意志の自由の働きに基づいて少しずつ善を獲得していこうとするのである。この考えは対象がわれわれの経験によって少しずつ実在化されるという、例の認識論的な真理の考えと全く対応している。ジェイムズによればかかる善の実現が真理への道に通じているのである。
 ここからジェイムズは改善論的宇宙なるものを想定する。ジェイムズによれば「改善論的宇宙は、独立の諸力の多元論として、社会的なアナロジーに従って、考えられる。」
(5)従って改善論的宇宙は多元論的宇宙の意でもある。このような宇宙にあっては何が問題であるのか。それは自らの最善をつくすということである。そして自らの最善を尽くすならば、かかる宇宙は決して破綻の方向へはいかないだろうという期待である。なぜならば改善論的宇宙の運命はひとつの「もしif」ないしは多くの「もしifs」にかかっており、決してあらかじめ決定されてはいないからである。いいかえればかかる改善論的な世界は「まだ未完成なので、その総体の性格は、定言的命題によってではなく、仮言的命題によってのみ表現されうる」(6)ものであるからである。
 ところで宇宙ないしは世界が存在する以上、それを構成するのは単にわれ一人ではあるまい。当然他のメンバーの存在も考えられねばならない。いいかえれば、仮にわれわれが自らの最善をつくしたとしても、他のメンバーもかかる宇宙の成果に対してなんらかの関わりをもつのである。それに対してはいかに考えられるべきであるのか。
 この問題はわれわれの倫理的態度として、そして現実的態度としてきわめて重要である。なぜならばもしわれわれが自らの最善をつくす根拠が宇宙をよりよくすることにあるとしても、彼らがわれわれの意図に協力してくれないこともありうるからである。それに対するジェイムズの考えは以下の通りである。まずかかる宇宙における他のメンバーに対する関係は客観的には次の四つの態度として位置づけられる。
(1)主知主義者の忠告に従って、証拠をまつ。しかもその間は何もしない。
(2)他の諸力を信頼しない。そして宇宙はよくならないだろうと確信し、よくならないままに放置しておく
(3)他の諸力を信頼する。そして「もし」という条件がついているにも関わらずともかく自分たちの最善をつくす。
(4)日によって態度をかえ、右往左往する。
(7)
 かかる四つの態度のいずれがとられるべきであるのか。いうまでもなく第三の態度である。第四のそれは組織的な解決ではなく、第二のそれは敗北への信仰を意味するし、第一のそれは実行の上で第二のそれと区別されうるにすぎないのである。とはいえジェイムズのこの選択は、究極において、前述の疑問を根底からとりはらってくれる確証をともなっていないのはあきらかである。
 ジェイムズ自身もいう如く、それは「もしわれわれが自ら最善をつくし、しかも他の諸力が彼らの最善をつくすならば、世界は完成されるであろう」
(8)という仮言的命題をつくるだけであって、一番重要であるところの、現実の事実を伝えていないのである。それは結局「可能と考えられる事実の様相を表現する」(9)にすぎない。
 それならば第三の態度は実際的価値をもたないのであろうか。そうではない。すでにジェイムズの様々な考え方を考察してきたわれわれにとっては、実はかかる態度の中に実在性の真の姿が隠されている点が察知されるだろう。第三の態度はなるほど現実の事実を表現してはいない。だがそれは一つの可能性を実現しようとする過程の中にあるといわれねばならない。即ちそれはわれわれの要求しようとしている事実をつくりだそうとするわれわれ自身の意志をうながす力をもっているのである。
 これは何を意味するかといえば、われわれが世界を仮言的命題の形でとらえようとすることが、即われわれの実在的な生をつくりあげるということであり、すでに完成された世界においては、われわれの生の実在性は一つの象徴としてしか機能しえないということである。いわばそこにおいては未完成の世界の想定が実在性をえるための条件なのであり、未完成の世界とわれわれの意志との結合、従って未完成の世界を完成させようとする過程が、そのまま実在性として考えられているのである。
 ジェイムズはそれをまとめて次のようにいう。「われわれはいわば両足でもって地面からはなれて一つの世界の中へ、あるいは一つの世界の方へ、とんでゆくことができるし、とんでいくかもしれない。われわれはその世界の他の部分がわれわれの跳躍をむかえてくれるものと信頼している。そうであってこそ、はじめて多元論的な型の完成された世界の形成が生じうるのである。」
(10)ジェイムズはこのような考え方が首尾一貫していないとは考えていない。むしろ、逆に世界がかかる考え方以外の形で形成されうるとした場合、われわれの協力を断る他のメンバーの存在をどうとりあつかわねばならないかについて苦しみ、結局起経験的ななにものかに頼るようになる考え方こそ首尾一貫性を欠くと考えているのである。
 このようなジェイムズの考えは偶発論を意味するものでもある。即ちジェイムズによれば「未決定な未来の意欲とは偶然を意味する」
(11)のである。われわれは前節において多元論が自由意志の考えをうけいれることを知った。それによれば、われわれ自身が新奇なものの創造者であるという考えが認められなければならなかったのであるが、真の新奇なものがおこりうるということは、われわれとは違った立場からいえば、今後あらわれてくるものはあらかじめ決定されているものではなく偶然なこととしてとりあつかわれなければならない、ということである。
 それ故、偶発論は多元論と最も近い関係にあるといえよう。即ち多元論は実在のある様相を示しているのに対し、偶発論は実在のあるあらわれかたを示しているのである。実在のあらわれ方は、ジェイムズの考えからすれば、われわれ自身の生とのかかわり方と不可分の関係にあるから、当然、道徳的問題と密接につながっている。ジェイムズによれば「偶然とは道徳的観念からすれば未来が過去にあったものよりも他のものであり、、よりよいものであるということである。」
(12)
 多元論それ自体が単に事物の多元的状態を素直に肯定する以上のなにものも意識されないとしても、この多元論が改善論的に考察された場合、いいかえればこれから生じるであろう新たな多元状態がわれわれにとってよきものであるとする場合においては多元論における最も整合的な態度である非決定論的方法はなんらかの形で価値を有しているものとみなされなければならない。かかる見地からジェイムズは、この「偶然」の中に一つの道徳的価値を賦与せしめたのである。
 偶発論はこのような考えに基づく理論であり、自由意志的決定論ともいわれるべき性格をもっている。ただしここで決定論といわれているのはあらかじめすべてが決められているという一元論的な意味においてではない。われわれが努力の最善をつくせば必ずえられるであろうよき世界が想定せられているという意味であり、今までの言葉でいえば仮言的命題としてうけとられる限りにおける決定論である。
 そのことはわれわれの精神の内部においては次のような感じを生じさせている。即ち、われわれが世界を一つの総体として考えてみようと思うならば「その中に全く善なる状態の偶然をともなう世界の方が、たとえその偶然が決して生じないとしても、かかる偶然を全くともなわない世界よりもよい」(13) という感じである。ここにわれわれはジェイムズのいう偶発論の一つの特徴をみることができる。それは偶発論があまりにもかたくなな決定論よりも、道徳的実在感の観点からして、よりましであるという意味でジェイムズによって採用されているということである。ジェイムズが偶然を重視するのは前述の道徳的価値をもっているからであって、そこには可能性を信じるジェイムズの態度がありありとみられる。その意味ではジェイムズの偶然に対する期待は、一種の賭のようなものであるといえるだろう。
 それではジェイムズが偶然を信じる根拠はどこにあったのか。いうまでもなく、偶然の中にわれわれの意志が働く機会があるということであり、「それはわれわれの世界を生き生きとさせる活気であり、世界に妙味をつける塩」(14)だからである。ジェイムズにおいてかかる見地から一切の理論の価値づけがなされるのであり、それ以外の理論的観点は、ただわれわれの情緒を刺激する限りにおいて意義があるだけであり、たとえば唯物論が軽視されたように、よそよそしい理論は彼の思弁的対象とさえならないのである。
 以上でもってわれわれはジェイムズ経験論の各論的な考察を終えなければならない。再三、際し繰り返すように、ジェイムズの考えを各論として考察しようとするならば、このほかにまだ幾多の考察されるべき主題があるのは否定できない。シラーのあげるジェイムズ哲学の特徴でまだ詳細に考察されないものの中でも、「善と有限論」「ヒューマニズム」「人格的理想主義」「神人同形同性論」「英国風」「ウィッティシズム」等があり、これら一つをとってみてもジェイムズ研究にとって重要なテーマであることはいわれるまでもないであろう。だが本節においては勿論のこと本書を通じて、ジェイムズの主張がなにか一つの筋の通った論理に基づいていること、そして、そこからジェイムズはたった一つのあきらかなことしかいっていないこと、即ち生の尊重をたえず訴えていることをあきらかにするのが論者の意図であるので、これらについての考察も結局は同じ効果を期待するためになされるであろうし、従ってここで省略されてもそれは決してジェイムズ哲学の価値を傷つけることにはならないであろう。
 問題なのは、論者の主観的意図とは別にして存在するところのジェイムズの論理的観点とそれに基づく表現内容が一致しているかどうかということの客観的判断である。ここでわれわれはジェイムズの思想のパラドックスについて触れねばならない。論者がいかにジェイムズの論理的観点にたって忠実にジェイムズの考えを展開しようとしたところで、オルポートのあげる如き六つのパラドックスが完全に払拭されているかどうかは疑問である。
(三)
 その問題については一部第二章第七節の「根本的経験論に対する一般的評価」において第三者の名を借りて間接的に批判されているのをみてもあきらかであり、又ジェイムズのプラグマティズムに対する誤解も、ジェイムズ思想のパラドックスからきているといえないこともないのである。さらにわれわれがより冷静な立場にたって考えれば、ジェイムズ思想において現実的に最も生彩をはなつところの彼の宗教思想は、実はかかるパラドックスをよけいに拡大しているともいえるのではないだろうか。オルポートにいわせれば、かかるパラドックスが「生産的」にジェイムズ思想に影響を与えているということになるのであるが、いくら生の尊厳性をうたいあげるためであるとはいえ、彼の言葉でいうところの硬い心の精神と軟らかい心の精神がともに利用されているような感じをわれわれに与えているようであれば、われわれはかえって生の尊厳性の重みがなくなるような気がしないでもないであろう。
 もっとも、ジェイムズは「経験主義と精神主義を結合する」という例の哲学的態度によってこのパラドックスに対する批判の免罪をえようとしている。だがそのことは理論的に可能であったとしても、そしてそれによって折衷された理論が生まれたとしても、彼自身がそれでいて経験主義的立場にたとうとする限りにおいて、この折衷的な理論は一種の物わかりのよい「なにか」としてしか機能しえないおそれがあるといえるのである。とはいえそれによってわれわれはジェイムズの論理的観点とその表現内容との矛盾をついているとはいえないかもしれない。なぜならば、主知主義的に考えても、生の尊厳性をうたいあげる観点と折衷的な理論が不整合であるという積極的な根拠をわれわれはみいだしえないからである。むしろわれわれは、ジェイムズの考えの忠実な展開の結果によれば、折衷的な理論が一つの人間の生における一つの気質として解釈しなおされることによって、それらの一致を強制せられているのである。
 それではジェイムズ思想のパラドックスはいかに解釈せられるべきなのか。少なくとも本書ではペリーのいうように、たった一人のジェイムズしかいない、との観点にたって、そのパラドックスをうきぼりにしないで、かえっておおい隠す意図のもとに論述されてきた。しかし、数多くのところでその破綻がみえているのは事実なのである。
 実はこの問題はジェイムズ個人の問題に帰してとりあげられるよりも、経験論哲学一般のそれとしてとりあげられるべきであるだろう。経験論哲学には一つのディレンマがある。それは日常的実際的態度と学問的態度とのオーバーラップである。経験論者が合理論者のように究極の場合学問的態度に徹しきれないのは「事実に基づく態度」ないしは「現象のありのままの姿をみる態度」に起因しているからである。ジェイムズの言をまつまでもなく、合理論は原理から事実を演繹し、経験論は事実から帰納されたものとしての原理を説明する。
 だが後者において問題になるのは「事実に基づく態度」ないしは「現実のありのままをみる態度」それ自体が学問的態度と一致しえるかどうかである。いみじくもジェイムズがいっているように「われわれの間の最大の経験論者であれ、反省に基づく経験論者にすぎない」
(15)のである。してみれば経験論哲学そのものが、事実から帰納されたものとしての原理を確立する段階において学問的態度をまっとうできたにせよ、もはや日常的実際的態度とあいいれない裏切り行為を行うという矛盾をおかしているのではあるまいか。これは今までのわれわれの論述の流れからいえば、経験に主知主義的態度をいれることによって哲学を構成しているということである。
 それではジェイムズ経験論も又主知主義的であったのか。かかる問いに対し、われわれはそれを否定する何物もみいださないであろう。そしてわれわれがジェイムズ経験論にパラドックスが確かに存在すると判断する以上、われわれはジェイムズ経験論が主知主義を批判する主知主義的哲学であるといわれねばならなくなってくるだろう。仮令、ロックやヒュームの経験論ほど主知主義的でないとしても。
 この皮肉な結論に対してわれわれはいかに考えるべきなのか。われわれのこれまでの論述は、主知主義がいかにわれわれ人間の生にとって有害であるか、を訴えつづけてきたのにすぎないのである。してみればこれまでの論述は前にも引用したところの次のジェイムズのテーゼを身をもって例証したことになる。「主知主義者の困難に対する主知主義的解答は決してでてこないであろう。それらの困難からぬけでる真の方法はそのような解答の発見にあるどころか、その問いに対する耳を単にとじることである。」それはわれわれが哲学することを拒否するものなのであろうか。だがこれまでの論述には同様に次のこと即ち『プラグマティズム』を発刊する動機となったジェイムズの次のテーゼに強くささえられていることもうきぼりにされているはずである。「私自身、哲学を深く信じ、ある種の新しい夜明けがわれわれ哲学者の上にむかえられているということも信じている。」
(16)
 ここでわれわれはこれまで度々くりかえしてきた「経験」の何たるかを再び問題にしなくてはならなくなる。しかしそれはいくら問いかけても最終的な解答としてえられない神秘としてあるという以外の結論しかえられぬ豊饒さをもっているので、かかる問いかけをする必要性を了承するにとどまらざるをえないであろう。これまでの論述からわれわれがジェイムズに対して理解したことは、ただジェイムズが人間の知識に関する理論についてはたしかに経験論者であると判断されることであり、しかもジェイムズはその中にあって次のように考えていること、即ち「経験の基調は一つの激しい形而上学的輝きのきわめて刺激的な感覚である」
(17)ということ、又「真理はほとんど盲目的な証拠の深さの下にある深遠な考えに向かって開かれている」(18)ということである。 

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